ABOUT US
私たちについて
月光荘画材店の創業者である橋本兵藏は、明治27年(1894年)富山に生まれ、北アルプスの雪どけ水が日本海にそそぐ自然豊かな街で育ちました。
兵藏の父は、「柿の木の手の届くところの実はお遍路さんに、てっぺんの実は鳥たちに、おまえ達は真ん中の実だけを取って食べなさい。」と諭すような人で、自然のふところで人や動物が共に助け合って生きていくことの大切さを兵藏に繰り返し聞かせたと言います。
また子供たちには学ぶ環境が大切なのだと、本を次々に買っては蔵の中に積んでいきました。これはいわゆる無言の教育といったもので、兵藏は本を沢山読んで育つことができました。この父が、兵藏が物心つく頃から耳にタコができるほど繰り返し語った言葉があります。
「1.嘘をつくな。
2.盗みをするな。
3.一所懸命に働け。
これができて半人前。
その上で人に恩を返すことができて
一人前。」
そして兵藏の母もまた、我が家の貧しさもかえりみず、近所のさらに貧しい家に自分のところの餅を持っていくような慈悲深い人だったといいます。
学歴こそ小学校出ではありましたが、こうして厳しくも温かい両親に育てられた兵藏は自由な精神を育み、山野を駆け巡っては草花の美しさに心をときめかせていました。また、空にかかる虹を見るのが大好きで、ある時、「俺、あの虹の橋を渡ってみたいんだ!」と学校の先生の制止を振り切って駆けだすほど、自然の美しさに惹きつけられていました。
自然豊かな環境のもとで多感な少年時代を過ごした兵藏は、やがて東京に憧れを抱くようになり、大正元年(1912年)、18歳の時に富山から上京します。そして郵便配達夫などの仕事を転々としながら、YMCAの主事であったフィッシャー氏の九段の家に書生として住み込みで働き始めます。その時の向かいの家が、歌人・与謝野鉄幹、晶子夫妻の家でした。
かねてより与謝野夫妻の歌集を愛読していた兵藏は、一度でいいから会いたいと日々心をときめかせ、ある日とうとう一人で訪ねていく決心をします。突然訪ねてきた田舎者丸出しの青年を、夫妻は嫌な顔ひとつせず招き入れてくれました。そして兵藏のことを気に入り、いつでも来なさいと言ってくれたばかりか、その後折にふれて与謝野家に集うお客様たちに紹介してくれるようになったのです。
当時夫妻は雑誌「明星」を主宰していて、ご自宅には北原白秋、石川啄木、高村光太郎などの詩人や、藤島武二、梅原龍三郎、有島生馬、岡田三郎助などの画家たち、また建築家や歌舞伎役者など、ジャンルを超えた人々が集まっていました。
夫妻の家で兵藏は気の利いた話などできるわけもなく、ただ皆が話すのを黙って聞いているばかりでしたが、集まった人たちからだんだんと可愛がられるようになり、そのうちに兵藏の心の中でそれまでまったく知らなかった芸術の世界がひろがっていきます。画家たちが語る、「ものをみる目」 「表現する心」といったものに心を奪われていくのです。
いつも控えめだった青年が、思い切って画家の先生たちを前に、幼きころ生まれ育った街で見た虹にどれだけ憧れをもったかを語ったことがあるといいます。そしてなんとかこの魅力的な芸術家たちの仲間に加わって、自分のお役に立てるものがないものかと、いつの間にか考えるようになっていました。
そんな彼に皆が助言をしてくれるようになります。
「君には色に対しての憧れがあるし、いい感覚と感性があるから、ひとつ色彩に関係する仕事をしてみてはどうだろう。」
兵藏は画家たちが国内で売られている絵の具や画材に、大きな不満があるのを知っていました。画材商という、人生をかけて進むべき道がはっきり見えた瞬間でした。
兵藏は晩年、この時の気持ちを次のように語っています。
「私の一生をかけて、芸術という大きなものに心血を注いでいる先生方の、お役に立つようになろうと堅い決心をしたんだよ。」
兵藏はまず、外国から絵の具の輸入をはじめます。画材の注文があると、雨風のひどい日でも郵便配達夫時代のように自転車で届けて回りました。やがて資金が貯まり、ついに大正6年(1917年)、東京新宿の角筈に最初の月光荘画材店が誕生します。橋本兵蔵、23歳の時でした。
そしていよいよお店を開くという時に、兵蔵は与謝野晶子から歌を一首送られるのです。
「大空の
月の中より君来しや
ひるも光りぬ
夜も光りぬ」
そして鉄幹さんがフランスのヴェルレーヌの詩「月光と人」から引用して、「月光荘」と名付けてくださいました。現在のお店の入り口にある看板に書かれた「月光荘」の文字も、与謝野晶子さんによる直筆の書体です。
そして生涯、与謝野夫妻のご恩を忘れぬよう、兵藏は自らを「月光荘おやじ」と名乗るようになります。それからは郵便物の宛名もすべて、「月光荘おやじ」、「月光荘おじさん」で届くようになりました。
また、トレードマークである「友を呼ぶホルン」も、与謝野夫妻を中心とした当時の文化人グループ(小山内薫、芥川龍之介、島崎藤村、有島武郎、初代猿之助、森律子、藤島武二、岡田三郎助など30数名)の方々により考案され、音を奏でて多くの人に集ってもらいたいという願いが込められました。兵藏はどれほど感激したことでしょう。
店の建築設計は画家・藤田嗣治の監修によるもので、パリの街角をそのまま移したような当時としては斬新なつくりだったので、 珍しい建築だからとさまざまな映画のロケーションとしても使われました。店員さんにも、背の高いフランス人の女性がいて、当時としてはかなりハイカラな雰囲気だったようです。
起業後の金銭面を心配した与謝野晶子さんは、自分の名刺に「私の友人」と書き記したものを兵藏に持たせて、新宿中村屋のご主人である相馬愛蔵、富山出身で富士銀行創始者の安田善次郎、生活協同組合創始者の賀川豊彦らに引き合わせ、経営のイロハを学ばせます。
「売れるものを考えるのではなくて、人が喜ぶものを売ること。」
「自分で売るものは自分で作り、自信のあるものだけを売りなさい。そして売りたいがための値下げで、安売りなんかをしてはいけない。そんな絵の具にとびつく画家はきっと大成しないはずだから。どんな時でもお金の奴隷になってはいけないよ。」
そんな経営の大先輩方の助言を頂きながら、月光荘はスタートしました。
月光荘おやじは、店を持ちながらも画材配達を続けました。画家が実際にどのように画材を使っているのかを見せてもらい、研究を重ねてどんどん改良を加えていくためです。若き日の中川一政、小磯良平、猪熊弦一郎、中西利雄、脇田和などのアトリエにも、毎日のように出かけていったといいます。
やがて開店して5、6年ほど経った頃には、少しずつ店も軌道に乗り始め、与謝野夫妻を中心に当時の文化人たちが集うサロンのような場所になっていきました。
月光荘創業当時の20世紀初頭、日本の洋画界はフランスに追いつき追い越せという時代で、絵の具と言えばフランスのものに頼るしかない状況でした。月光荘でもまだ自社製の絵の具は完成しておらず、当時国内で唯一月光荘だけが取り扱ったフランス製のL.C.H(エルセイアッシュ)PARISのほか、フロレンス油絵具などを輸入販売していました。
輸入といえばその頃は船便だったので手元に届くまでに最低でも2ヶ月はかかり、高額なのはもとより、画家たちが使いたいときに欲しい色が無いなど、絵の具は決して簡単に手に入れられるものではありませんでした。またその頃、国産の絵の具はあるにはあったけれど、ヨーロッパから輸入した染粉を練ったものがあるだけで、不純物も多く、顔料で作られた輸入絵の具とは比べものにならないクオリティでした。
兵蔵はそんな状況の下、作品作りに命をかける画家たちが誇りに思えるような、純国産の色鮮やかな本物の絵の具を作らなければならないという使命感に駆られ、自ら絵の具の開発に取り掛かります。
戦争が始まると外国からの輸入が途絶えたので、文部省は代用品絵の具の製造を各社に命じます。業界の全員が賛成し、代用品時代となりました。しかし絵は描き替えられないのが画家の業なのだと、ガンとして代用品に反対し本物の絵の具作りにこだわったのは、兵蔵ただ一人でした。
画家が集まると、一日も早い国産絵の具の完成を願う言葉が口々に聞こえてきます。たとえ四面楚歌になろうとも英仏品と肩を並べるには、どうしても自家製の顔料を作る必要がありました。
戦時中は、コバルトは特殊鋼の精製に不可欠の金属で、軍事面でも大変重要な成分でした。戦争が始まるのと同時に、時の日本政府は大きな予算を組んで各大学の研究室にコバルトの開発を命じました。しかし、何年経っても完成には至りません。
そんな状況の中、兵蔵が最初に着手したのが、その「コバルトブルー」でした。絵の具の顔料は、原料となる鉱物を高温で焼いて、そこから抽出した成分をもとに作ります。兵蔵は専門知識があるわけでもないので、ありとあらゆる専門書を片っ端から読み、どのようにしたら原料の鉱物から青色コバルトの成分を取り出すことができるのか、手探り状態の中で実験を繰り返していきました。
川底の石をさらって、
砕いては焼き、
また砕いての繰り返し。
焼く時も、何千度ならどうなるのか、時間はどれくらいが良いかと試行錯誤の連続。そして何としても画家たちの役に立ちたいという強い思いからあきらめることなく研究を続けた結果、独自の技術でじっくり焼かれた鉱石が、炉の中でついに青く光ったのです。1940年(昭和15年)、コバルトブルーの顔料抽出が成功した瞬間でした。たまたま目にした、間欠泉の吹き上がる様子から コバルト成分を取り出す方法を思いついたと言われています。
こうして日本ではじめて、顔料から作られた純国産の油絵の具が完成しました。月光荘画材店を創業してから、23年後のことでした。
この純国産絵の具の完成を喜んだ洋画家の猪熊弦一郎さんが、さっそくコバルトブルーの誕生を新聞各社に知らせてまわりましたが、 一行の記事にもなりませんでした。政府が莫大な研究費をつぎこんだ一流大学の研究室にできなかったものが、ちっぽけな町工場で完成されたというのでは、国のメンツが丸つぶれになるからでした。それどころか、「たかが町工場にできるはずがない、あれは戦争前に輸入してストックしていたものを、少しずつ小出しにしているに違いない。」などという噂まで立てられたりしたのでした。そんな声に、兵蔵は憤慨して言い切ります。
「それなら美術連盟を通してでも、
一度にたくさん注文してみろ。
何百ダースでも応じてみせるぞ。」
やがて陸軍から「もし本当にコバルトがあるのなら提出せよ」という命令が下ります。兵蔵はこの軍の申し入れを拒みました。そして翌日には海軍省からも要請がきます。軍事面でコバルトが重要だということでしたが、あくまで絵画の絵の具としての提供を決意。そんな経緯があって、いわゆる「戦争絵画」と呼ばれる作品は、すべて月光荘の絵の具だけが使われました。戦争は二度と起こしてはならない悲劇ですが、戦争絵画の色は今でも燦然と輝いています。
そして、戦後も絵の具の開発研究は続けられ、1948年にS.O.S.(ペースト状速乾剤)を発明、1952年にはチタンホワイトの製造に成功。1960年に「月光荘ピンク」と呼ばれるCobalt Violet Gekkoso Pink(コバルト・バイオレット・ピンク)を発明します。この月光荘ピンクは、1971年の世界絵の具コンクールで1位を受賞、ル・モンド紙に「フランス以外の国で生まれた奇跡」と評価をいただきました。
昭和の初め、当時はまだ珍しかったカラー写真を表紙にあしらった雑誌「月光荘便り」を兵蔵が中心となって刊行。画家同士の交流を深めるのに大きな役割を果たし、昭和に入ってからも、大好きだった「西洋映画」と「西洋画」の両方をかけ合わせた雑誌「洋画新報」、続いて雑誌「近代風景」を創刊します。戦後には大判の紙に商品やニュースを印刷して「読む包装紙」と名付けたものを作りました。雑誌作りは、タバコも吸わず、晩酌はお銚子一本と自らを戒めて暮らしていた「月光荘おやじ」にとって、かけがえのない楽しみでした。
また、昭和16年頃には新進作家の発表の場としてギャラリーを開き、岡田三郎助を審査員に「新人コンクールフローレンス賞」を開催します。この新しい作家を育てていくという理念は、現在の月光荘画室の運営において、変わらず根底に流れているものです。
新宿のお店は昭和20年の大空襲ですべてが灰燼に帰し、故郷富山にある宇奈月温泉の山に作った画家のための理想郷も戦後の大火で焼失、兵蔵は本当の裸一貫になります。そして終戦後の昭和23年、東京銀座・泰明小学校前に店を再開しました。「やるなら銀座がいい。」そういって銀座を勧めた猪熊弦一郎氏は「おやじ、焼けて良かったな。」と冗談交じりに兵蔵を元気づけたといいます。その後何度か銀座の中で引っ越しを重ね、平成18年より銀座8丁目の花椿通り沿いにて、今日もお客様をお迎えしています。
大正6年、与謝野晶子さんのサロンから出発した月光荘。「色感と音感は人生の宝物」を理念として運営されてきました。
そして100周年を迎えた月光荘に、新しい仲間が増えました。毎晩の生演奏と共に、現代の感性豊かな人たちが集い語り合う「月光荘サロン・月のはなれ」、長野県の水彩絵の具屋さん「まっち絵の具」、日本の絵の具開発のパイオニアである長崎春蔵の技術と精神を引き継ぐ「春蔵絵具」です。
次の100年は、人々が集い、思いを交換し、互いに成長していく「場」として、月光荘グループが縦横無尽に感性の糸を通し、新しい時代の豊かさを提案していけたらと思っています。